2012/03/31

紙芝居の上演!!

 墨田区にある「子育て地蔵」にまつわるお話。
町の長老たちに聞いたおもしろ~い話をもとにした、手作りの紙しばいです。
「おはなしの会 つくしんぼ」による楽しいおはなし会も行いますよ。
小さなお子さまから大人まで、みんなで遊びに来て下さい!

<日時>
2012年4月7日(土)
①14時~ ②15時~ 各30分を予定
*上演5分前までに入場お願います。
*雨天の場合4/8に順延。(両日雨天中止)

<上演内容>
・紙芝居「地蔵坂むかしむかし」
・おはなし(おはなし会 つくしんぼ)

<場所>
こすみ図書
東京都墨田区向島5-48-4(鳩の街通り商店街・墨堤通り側)

<入場料>
無料(定員数を超えましたらお断りする場合もあります)

おはなし会 つくしんぼの活動内容については
コチラ↓
http://www.sumida25.net/s132/
いっしょにネっつと

2012/03/02

スペシャル!

「第七回 ふわゆる上映会~『未来の記録』から見る地域コミュニティの映像化~」
<企画概要>
去年から数えて、ついに7回目を迎えました。週末にみんなでご飯を作って、一緒に食べて、映画を見るという企画です。特にテーマを決めて開催しているわけではありませんが、今回は『未来の記録』(製作:2011年、監督:岸建太朗)を取り扱います。地域コミュニティがサイトスペシフィックという観点から映画化、美術化されてきたここ10年くらいの日本の文化状況を踏まえてトークしていきます。
→、『未来の記録』についてなどはコチラ

<日時>
2012年3月10日(土)19:00-
※18:00-18:30くらいから集まって、ご飯を食べます。ご飯の準備の都合上、上映開始時間が遅れることがあります。上映終了後、20:30くらいから30分ほどトークをします。

<トークゲスト>
上村聡
遊園地再生事業団
鈴木日出海
早稲田大学文化構想学部社会構築論系卒業。
ふわゆる上映会コンシェルジュ。

<場所>
こすみ図書
東京都墨田区向島5-48-4

<費用、予約の有無>
500円+カンパ
要予約
※ご飯を用意する都合上、人数を把握しておきたいので、ご予約を予めお願い致します。
※定員:20名
<予約先>
nudo.engeki■gmail.com (■→@)
窓口:よこたたかお
「参加者名」「人数」をご記入の上、上記連絡先までご連絡ください。
<リンク>
「『未来の記録』公式サイト」
http://www.mirainokiroku.com/index.php
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<企画の詳細>
まず始めに誤解を訂正しておきたいのは、「ふわゆる上映会」は、自主映画を製作する若手アーティストを支援するようなイベントではなく、東向島という地域コミュニティの中でインフレを起こした(起こしている)「こすみ図書」という場所に関心を惹きつけるためのイベントであるということだ。とはいえ、少し冷静になっておかなくてはならないのは、東向島周辺にここ数年急にアーティストが住み着き始めたことと、地域コミュニティの再生との間には接点はほとんどなく、「向島学会」という前史があって成立しているということで、初めて来る人は押さえておくべきかもしれない。
「未来の記録」は、2011年に「SKIPシティDシネマプロジェクト第一弾支援作品」として、新宿武蔵野館にて劇場公開されました。その後、全国五箇所の映画館で上映され、イタリア、トリノ国際映画祭にも招待される。同年12月には、自主上映としてUPLINKにて、多言語,バリアフリー上映などリバイバル上映をし、1,500人以上もの動員を果たした。
日本独特のアマチュア映画の呼称である「自主映画」という括りには必ずしも入らないが、それでもやはり商業資本から「独立した」形で上映される「自主映画」であることは間違いない。その「自主映画」が、少なからぬ注目を集め、また市井の観客にも少なからず受け入れられているという現象それ自体は、映画史的に見てとても興味深い。
しかし、この作品を「自主映画」であるとかコンテンポラリー・アートの文脈で語るには、あまりに惜しいというか、そういう文脈でしか作品を紹介できない昨今の矮小化された「文化産業」という視点こそを、貧しいと私は思う。つまり、『未来の記録』を「自主映画」作家たちの「希望」にするのは、どこか間違っているということだ。
この作品ではフリースクールを舞台に、そこに置かれた机や落書き、看板など記憶の残存に触れて他者の記憶がフラッシュバックする、そのイメージが映像化されている。私はこの作品を見て、この映画を紹介してくれた太田信吾さんが同年に撮影した『それは愛じゃない』を連想した。それは監督の住む地域の記憶の残存を掘り起こそうとするような主旨であった。両者に共通するのは、地域に書き込まれた目に見ることのできない記憶である。
私はもしかしたら、この地域の記憶を掘り起こしていく運動というものが、「自主映画」という名前を隠れ蓑にして行われているのではないかという妄想に取り付かれてしまった。何ら当事者性を持たない若者=若手アーティストが、いかに当事者性を取り返すか、また取り返す必要もない当事者性をいかに代弁するかという作業が、秘密裏に行われており、決して商業資本や流通経路に乗らない場所で歴史が叙事詩化されているのではないかということを考えた。
文字によって歴史化されない発語は、当然のことながら共同体の記憶から抹消される。その抹消された発語は私たちのすぐ近くにあるがゆえに、注目もされず、日々垂れ流されている。この発語がある一定の時期までは口承によって、そして巻物にアーカイブされ、今日「歴史」や「神話」と姿を変えているのだとすれば、20世紀以降の場合には「歴史」や「神話」を形成する素材は映像だということになるかもしれない。何故なら、映像は発語までも記録することができるからだ。50年後、100年後にもしかしたら、歴史資料は映像をメインに参照項にしているかもしれない。もしそうだとすれば、この数年、突如として地域の記憶を発掘しようとしている映画監督の諸活動は、この新たな叙事詩を形成する偉大なる基礎付けであったと言われることになるだろう。
(よこたたかお)